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2025.12.17

【Vol.1】自律協生スタジオ共同研究成果報告「参加型の未来」インタビュー企画

アート的態度で社会と、自分と、向き合っていく

武蔵野美術大学学長の樺山祐和教授に、自律協生スタジオでの共同研究のことを皮切りに、アートとデザインの違いやこれからの世界における美術の役割などについてお話を伺いました。


武蔵野美術大学学長/油絵学科教授 樺山祐和氏


美術の領域と新しい価値観の生まれ方

──ムサビと日本総研の共同研究が始まったのが2022年11月です。樺山教授が学長になられたのは、2023年4月でしたね。共同研究についてはどんなふうに思われていたんですか?

僕が学長になった時にはもう日本総研とムサビの取組みが始まっていたから、最初はやっていることが正直よくわからなかった。僕自身油絵学科の所属、いわゆるファイン系(※)で、企業のことを全然知らないので。だから、企業と大学がタッグを組んで何かやることに関して、なかなか企業と大学の教育とが結びつかなかったところがあったのだけれど、ようやく腑に落ちてきた感じです。

※ファイン系
絵画、彫刻等のファインアート(純粋芸術)を扱う領域・学科の総称。本学では、日本画、油絵(油絵専攻、グラフィックアーツ専攻)、彫刻の3学科がファイン系にあたる。

 

──どのように腑に落ちてきたのでしょうか?

学生達を巻き込みながら、社会の中で学外の人々と触れ合うことをやっていることが、凄くリアルだと思いました。美術とデザインの双方をもっと新しい考え方で広げて、新しい美術、デザイン、それを大きい美術と言っても良いのかもしれないけれど、社会に向けて提示しようとしていることがすごく腑に落ちたというか。

──仰っていることを理解するために、美大の学びについてもう少し詳しく知りたいのですが。

美術は、大きくはファイン領域とデザイン領域に分かれますが、それに加えて身体領域と言語領域があります。これらはそのままムサビの学科全体の構成にもなっていて、ファイン系の学科とデザイン系の学科があって、身体は身体運動文化。通常の体育に加えて、太鼓叩いたりフラメンコ踊ったりといった身体表現。ムサビは実は身体領域には力を入れている。言語領域は語学はもちろんのこと一般教養科目や美術史などの専門科目だけど、基本的にすべての科目に関係しますよね。これら美術、デザイン、身体、言語の領域の外側にAIという科学領域があり、歴史や考古学や民俗学がある。さらに企業や自治体と共同して行う社会連携があり、それに国際交流が加わって、図示するとこんな感じになるのだけど(※ダイアグラム)、これが美術あるいは美術大学の全体像(大きい美術)だと考えています。そして、これらがお互い横断的に、縦横無尽に関係し合うことが、美術領域において、新しい価値や考え方、大げさに言えば知性を創り出すのだろうと思っているんですよね。

※ダイアグラム

 

──このダイヤグラム、わかりやすくて良いですね。

デザインの領域は、基本的に目に見えるもの、名前のついた物や事を扱う領域です。それに対して、ファインの領域は見えないもの、名前のないものを扱う領域です。デザイン領域にはクライアントがいるけれど、ファインアートには、例え誰かに頼まれて描くようなことがあったとしても、厳密に言えばクライアントはいない。システィーナ礼拝堂だって、ミケランジェロにこう描いてくれとクライアントである教会や寄進者もいた。それでも制作することのもっと深いところではクライアントはいないんですよ。美術史を遡ると理解されるのは、何のために表現するのかと言えば、神そのものや神への捧げ物を作るためです。そういう意味では、クライアントは神なんです。そして、神はどこにいるかというと、無意識の領域にこそ居る。僕はいつも学生達にファインとデザインの違いを説明する時に、この図を一つの心のようなものだと説明するんです。デザインの領域は言葉、意識の領域。ファインアートは言葉にならない無意識の領域。この意識と無意識から心は成るのだけれど、ファイン(無意識)がデザイン(意識)の側に浮上してきたり、逆にデザイン的な考え方がファインに入り込んだり。言語は横断的に関係し、身体は僕らに残された原始的な領域で、その在りようは太古からほぼ変わらない。それらを相互にどう関係させていくか。どのように形作っていくかは、ものすごく難しいことですが、それらが横断的に関係しあってゆくことで、新しい価値というか知性みたいなものが生まれるのだろうと思います。例えば、今、デザイン思考の有効性が言われているけれど、その思考はファイン思考と関係することでもっと新しいものに生まれ変わる可能性があるのではないか。直接的に社会と関わる社会連携や海外との国際交流も、デザインだけではなくファインも含めて、全てを巻き込んだ上で社会とコミットすることで新しい価値観が生まれるのではと思います。

そして今後はAIが避けて通れないものとしてもあります。このAIをどのように使っていくべきなのか。AIはある意味では身体の対極にあるのです。それに加えて歴史や考古学や民俗学といった領域が加わることで美術という全体が構成されていると思います。

──企業との連携は「社会連携」に位置づけられるのだろうけれど、ここの存在が大きくなってくると、どんなふうに美術や教育に影響していきそうですか?

今、日本総研とムサビがやっているのは、今までにない形のあり方を模索している一つの実験形だと思います。これからどんな風に広がりを持って、発展的な未来を目指す考え方、あるいは枠組みを提示できるかっていうことだろうと思いますが、特にデザイン領域では世界中の大学が注目していますし、確実に変化を生み出す力になってゆくと思います。

 

ファインアートの持つ力


森町での共同研究発表の様子

──先日、共同研究の現場である北海道森町に来て頂きましたが、そこで感じたことは?

すごく可能性があると思いました。実際、森町に行って思ったのは、ここにはデザイン領域の学生だけでなくファイン領域の学生たちが来たらいいなということですよね。

──確かに、ファインの人がいたら全然違う展開になるかも。

ファインの人って「自分が作りたいから作る」っていうモチベーションなんですよ。何かのためにというよりは、自分の衝動みたいなものが大きなベースになっている。僕が森町に行って思ったのは、やっぱり圧倒的にあの環境が全てに影響を与えるんですよね。ファイン領域の学生にとって、「場」をどのように選ぶのかというのはものすごく大きい問題で、意識的にも無意識的にも制作にそのまま直結します。作るものが環境によって大きく変わってくるんですよね。森町の、こっち見たら海で振り返ったら駒ヶ岳がそびえているという環境は、ある意味自然の全部があると言っていい。それと森町って、函館から札幌までのメインルートの途上にある重要な中継地ですよね。

──縄文時代から森町は交通の要衝だったようです。

そうでしょう。あそこはやっぱり古くから人間がいたところなんですよね。土地というか、場が持っている記憶みたいなものがある場所。純粋な自然がありながら、同時にそこで生まれてきた太古からの暮らしの営みがあるじゃないですか。そういう場所には、いろんな意味で可能性があるんだろうなっていう風に思いました。

──森町で駒ヶ岳をご覧になった学長が、「これは描かれてきた山だ」ってボソッと言ったじゃないですか。人を描かせずにはいられない力がこの山にはある、という意味だと思うんですが、僕はあれを聞いて無茶苦茶感動したんですよ。ファイン系のアーティストってこういう見方するんだなあと思って。それはデザインの人とも違うし、企業人なんかとはもう全然違う。

この間、中国の西安美術学院と中国美術学院とムサビの3校の学生10人ずつと、西安でフィールドリサーチをやったんですよ。そこに僕のゼミ生も3人ぐらい連れて行ったんですが、ファイン系が入ると全然ノリが違ってくるんですよね。

──ファインの子たちが入ると何が変わってくるんですか?

グループワークだったんですね。デザイン領域の学生は実際に具体的に物を作ることよりも、パソコンの中での作業が多くなりますが、ファイン領域や工芸領域の学生はやっぱり物を作ろうとするんですよね。物をつくると見えるし触れられるから、デザイン領域の学生たちが触発されていくんですよ。今回、本当に具体的に物が在るということはすごいんだなと改めて思いました。

美術は人を自由にする

──森町でも、中学生達に、「美術は人を自由にするんだよ」って仰っていましたね。美術はどう人を自由にするんですか?

ムサビの建学の精神に「真に人間的自由に達するような美術教育」があります。僕も真に人間的な自由って何だろうと考えました。その文言の前文は「その枠を固定させず、しかも放縦にまかせず」という文言があります。これは人間的な自由に達するには徹底した基礎を学ぶことが必要であることを告げていると思いますが、基礎の根本は世界を観察することです。つまり見ると言うことですが、それを持続し表現することを通じて既存の見え方や考え方から解放されて自分らしい見方を見つけて行くということです。それはささやかなことですが、自分の見方を見つけること以上の自由はないでしょう。

ファインアートの一つの使命としてあるのは、社会を覚醒させることですね。「こんな社会や人間でいいのか」みたいなね。ただ、政治体制を批判するとか、何かを批判するために作られたアートっていうのは、ピカソのゲルニカのように素晴らしい作品もあるのだけど、なんかやっぱり、人間の最も深いところに作用していくには限界があるような気がします。結局、言葉に帰着してしまうからかもしれません。

アート的態度の本質は、自分と対話すること

──デザイン思考の次はアート思考だと言われて、企業側がアートだアートだと言っているけれど、そういう企業側、ビジネス側の動きについてはどう思われますか?

それは当たり前の動きだろうと思います。だって、これだけ合理や効率や言葉に支配され、おまけにAIまで出てきちゃって、それはもう苦しいですよ。意識や言葉だけの世界で、無意識が浮上しないんですから。そうなると人は溺れてしまいます。

──経済効率至上主義の行き過ぎに対してアート思考ということなんだろうけれど、社員がみんなアートに目覚めてしまったら会社は成り立たない感じがしますね。

もちろん成り立たないでしょうね。だからバランスが大切ですよね。肉体を持つこの身は圧倒的に〈この世〉のものでしかないですよね。この世は合理と効率で動いていることを理解した上で、もう一つの、〈この世〉と同じくらいリアルな世界<あの世>があるんだと思考することが必要だと思います。つまり具体的な社会の制度にアート思考を組み込んでゆくというよりは個人の内面において、誤解を恐れずに言えばアートが持つ無目的な価値というか。それに目覚めることが必要なのだと思います。

──デザイン思考まではビジネス側が手懐けられる世界のように思うけれど、アートというのはビジネス側が手懐けられるものではないですよね。でも、その手懐けられないものによってある種の覚醒をさせられ、今風の言葉で言えば、メタ認知をすることによって、自分たちのビジネスや組織のあり方をもう一回認識し直して、アップデートしていく契機にはなるのでしょうね。

なりますよね。デザインはやっぱり〈この世〉のものなんですよね。アートは、〈この世〉と〈あの世〉のどちらにも関わる。だから面白いし難しいんです。まあ、大元を辿れば、アートもデザインも同じだと思います。だから、みんな、一度、〈あの世〉の目で、〈この世〉を見てみるといいんですけどね。でもそれは言葉で言うのは簡単だけどとても難しいことだと思います。

──確かに、それは本当に大事ですよね。

アートって行き先のわからない旅をしている時が一番いい作品ができるんです。不安なんですよ。行き先がわからないから。どこに行くのだろうって。それを楽しめるかどうかですよね。

──行き先がわからない、行くべき道が分からない中でも、楽しみながら道を作っていくというような態度は、それこそ先行きが見えない今の時代においては最も必要な態度じゃないですか。デザインもアートも、美術、表現には正解はないわけで、正解がない中でも自ら道をつくるという態度を教えてくれることが美大の持つ大きな価値だと思うのですが。

その通りだと思います。だからこそ美術という領域が現代を切り開いてゆく可能性を感じるのだと思います。行き先が分からないことは不安だけど、どんな風景に出会えるんだろうといったワクワク感があります。美術の良さは「分からない」を肯定的に受け止め楽しむ態度にあります。一方で、なんとなく予想されるというか、先が見えてしまう恐怖の中で、自分がどこに向かうべきかわからないという名付けられない不安が今の社会にはありますよね。でもいつの時代もある意味、不安は同じようにあったのだと思います。ただ、現在はAIや量子コンピューターといった予測できない突出した科学技術の出現と戦争や紛争といった、人間がある程度は克服したかのように見えた原始的な欲望や衝動が同時に顕現しているという、今までにない別種の不安があるのだと思います。

──それを突破していくには、アート的態度が鍵になるのでは?

そう思いますね。昔は宗教という力が人々の不安を拭い去っていたと思います。現代においてはアートが、宗教的な力というか、意味というか、それを担うことはあると思いますね。アート作品を作り、それらが共有されることは、人々を救済というか、救って癒していく行為でもあるので。アートが宗教の果たしていた役割を担うということはあるだろうと思いますし、大事なことだと僕は思っています。

 

 

──アート的態度はどうすれば身につくんですか。作品をつくるしかないのでしょうか?

基本的に何かと向き合うことが重要だと思います。向き合うという行為は、結局、自分自身と向き合うことになります。対象を深く観察していくと、対象は自分と同じことをします。自分が立てば対象も立つし、本当に同じことをするんです。そしていつしか対象から自分自身が見つめられていることを気づかされます。これは比喩ではありません。だから何かと向き合うというのは、結局、自分と対話するということなんですよね。美術の基本は「みる」ことなんです。考えるというよりもみる。「みる」という言葉には、「見る」「診る」「観る」「視る」など色々あるのだけど、そういうことを全部合わせて「みる」ことが、対話の始まりなんですよね。視線を投げかけるということ自体がコミュニケーションなんです。動物たちは皆そうですよね。だから、できれば見たものをスマホのカメラで撮るんじゃなくて描くことですよね。もちろん現場で描くということが一番大事かな。それが一番いい。そうすると心が回り始める。結局それは自分との対話になっていくんです。そういうことがとても大事なのかなと思います。学生たちには、とにかく分からなかったら現場行けって言っていて、とにかく「みろ」と。できればそこで描けと。絶対に無限の情報がそこにあるから、絶対何かの解決策が生まれるから、というような言い方をするんですけど、これは単に美術という領域に留まらなくて、生きることのベースというか、こうやって話をすることももちろんそうですが、対話するということなんですよね。対話するには対象への敬意や興味を持つ必要があるし、発見したいという意欲を常に何に対しても持つことが必要だと思います。アート的態度の基本は好奇心と観察だと思います。

──現場が大事というのは企業でも言われますね。

現代において情報を得ようと思ったら、いろんな形でできるじゃないですか。でも、やっぱり現場に行かなきゃダメなんですよね。体をそこに運ばないと。現場に行って五感で感じないと本当の情報は得られない。以前、流氷を描いている学生がいて、流氷を見たことあるかと言ったら、「ない」と言うから、見てこいと言ったんです。夏だったから、流氷はないんですよ。でも、その学生は行ったんです。オホーツクまで。流氷は見ることができなかったけれども、実際そこまで行った過程の経験がいろんなインスピレーションをもたらして、作ることにつながって素晴らしいリアルな作品を作りました。それは企業においても同様だと思います。

──現場で何を受け取るのですかね?現場には何があるのでしょう?

ある意味、全てがあるんですよ。全てがそこにある。「場」というものを考えるんだけれど、絵画というのは、ある意味では、一つの「場」をつくることなんだと思います。「場」って、漢字で「土」を書いて、「昜」を書く。「土」は盛り上がった所。「昜」は、日、太陽が上がって、光が降り注ぐ様子を表しています。つまり、お日様が上がって光が降り注ぐ盛り上がった所。それが「場」という字の意味ですね。何かが依りましている特別な場所なんですよ。特別な所だから人が集まる。人が集まるとその場所はもっと特別な場所になってゆく。そこがパワースポットの様な所になってゆくのだと思います。「場」の力というのがあるんですよね。世界中の全ての場所を訪れることはできないけれど、訪れた場所は縁のあるところで、そこにはやっぱり何か特別な繋がりがあるんだと思います。自宅の近くに加治丘陵っていう丘陵地帯があって、いつもそこ行くんだけど、結構同じ場所を描くんですよ。何で同じ場所を描くのかというと、一回描くと、縁が生まれるんです。その場所と親密になっていくんです。それで、また行くと、今回は別のところを描こうかなと思いながらも、もう一回描いてみようって描いて。何回も何回も描き続けると、その場所とより深い関係になっていく。その場所が、地球上に一つしかない特別な場所になるんです。聖地みたいになって行くんです。「景気がいい」って言うじゃないですか。「景」は、景色の景だけど、それは「何かが特別に依りましているところ」という意味合いなんだそうです。景気のいい所には人が集まるから、そこはもっと特別なところに変わってゆく。で、人がいっぱい集まるとだんだん俗化していくけど、始まりはとても神聖で特別な場所なんですよね。やっぱり人が集まるところって何かがあるわけで、特定の場所に通って縁を生み続けるというのは、その「何かがあるところ」を自分でつくっていくようなことだと思うんです。

──物理的に一人の人間が行ける場所は限られます。僕がムサビとの共同研究でこの3年間通い続けているのは最初は3箇所でしたが、今は2箇所です。すると、たった2箇所とやっているようなことではビジネスモデルにならないじゃないかという意見が双方のマネジメント側からは出てきますよね。横展開できてスケールするというのが、ビジネスの前提なので。

物理的に限られる中でも通っているところは、先程言ったように、やっぱり特別な縁があるんだと思います。たくさんの場所でやればビジネスモデルが生まれてくるかというと、ある一定の解答や情報は得られるかもしれないけれど深い意味を持つ解答が得られるかは疑問ですね。いろんなところでやるのは、それはそれで一つの意味があると思うけど、同時に時間をかけて特定の場所と付き合うことを持続することが必要だと思いますね。

──そうですよね。なんか迷いがなくなりました。

長く付き合っているといろんなことが見えてくるじゃないですか。それが大切だと思います。

──確かに。3年通い続けた場所でも、毎回、発見があります。通っているうちに最初に見えていたものの見え方が変わってきます。やっぱり〈あの世〉に突き抜けていくようなことをやるには、そんな何箇所もできないし、簡単に横展開なんてできないですよね。自分たちがやってることが少しアートに通じるような気がして救われました。ありがとうございました。(了)

 

 

聞き手
井上岳一(日本総合研究所)